六番穴十二郎
目の前に、一人のアリがいました。大きな荷車を牽いて、よたよたと歩いているアリです。その荷車はあまりにも大きくて、とても一人のアリが牽いてきたものとは思えませんでした。
アリはうろうろとさまよいながら、それでも確かに、ある方向へと向かっているようでした。わたしは、ほんの悪戯な心から、アリの行く先を石で塞ぎました。アリは最初、頭の触覚で小石の壁に触れて、隙間や抜け道を探していましたが、その壁を超えるには大きく迂回するしかないと悟ると、たちまち怒り出しました。
「こいつをどけてくれ、このでくの坊」
アリは叫びました。
その手足や腰のくびれは、まるで髪の毛のように細いのに、その声はやけに力強く響きました。
「こいつとは、この小石のことですか?」
わたしはとぼけていいました。
「そいつが小石かどうかは知らないさ。おれはそいつが、人間でいえばなんなのかには、まるで興味がない。だがそいつは、アリでいえばたいした岸壁で、断崖で、とんだ邪魔者なんだ」
アリは小さな手足を振り回して叫びました。
わたしは石をどけてやりました。
「さあどうぞお通りください。でも、ここらでひとつ休憩はいかがですか。長旅でお疲れでしょう。少しおしゃべりでも楽しんでは?」
わたしはいいました。
「おしゃべりだと? こっちは急いでいるのだが、まあいいだろう。その人間でいえば小石とやらを避けてくれたお礼に、少しくらいならな」
アリはいいました。
「では、お名前を教えてください。わたしは人間でいえば一郎というものです。あなたはアリでいえばなんとおっしゃるのですか」
わたしはいいました。
「人間でいえば一郎さんとやら、どうもお初にお目にかかる。おれはアリでいえば六番穴十二郎というのさ」
アリはいいました。
「ところで、アリでいえば六番穴十二郎さんは、なにか御用事の途中でしたか」
わたしは尋ねました。
「もちろん、おれはいつだって用事の途中さ。今もこうして、城に食料を運んでいるところなのだからね。とても大事な役目だ」
そういって、六番穴十二郎は、後ろに牽いていた大きな荷車を指し示しました。
「すごい荷物ですね。お城は近いのですか」
わたしは尋ねました。
「近くはないさ。だけれども、これから夜通し牽いていけば、朝日が昇る前にはつくだろうね」
六番穴十二郎はすまして答えました。
「夜通しですか」
わたしは驚きました。
「城では荷車を待っているのだから、届けないわけにはいかない。この荷が届かないようなことがあれば、たくさんの子どもたちが食べることができずに衰弱してしまうに違いないのだからな」
六番穴十二郎はいいました。
「そんなにもお城は飢えているのですか?」
わたしは尋ねました。
「そんなことはない。城にはたっぷりの蓄えがある。この荷車が少しくらい遅れても、そうそう大事に至るまい」
六番穴十二郎は胸を張りました。
「それなのに、夜通し荷車を牽いていくのですか」
わたしは尋ねました。
「そうさ」
六番穴十二郎はいいました。
「でも、まだお昼になったばかりではないですか。急ぎでないのなら、今日は夕方まで荷車を牽いて、夜は休まれてはいかがですか。また明日に車を牽けばいいのです。あまり無理をなさると、体に障りますよ」
わたしはいいました。六番穴十二郎の体はとても小さくて、その荷車を引き続けるのは大変な重労働に思えました。
「明日と簡単にいうがね、それはひどく軽はずみな発言じゃないかね。もちろん、アリでいえばだがね」
わたしの気遣いに、六番穴十二郎は気を悪くしたようでした。
「なぜ、あんたは、“今日の死”という、とりかえしのつかないことを、なんでもない当たり前のことのように考えるのだい。また今日も見送らなければいけないのだよ。生まれては旅立っていく“今日の死”を。巡り巡って、回り回る、この世界のすべての生き物が、今朝生まれたばかりの“今日の死”を、また見送らなければいけないというのに」
六番穴十二郎はいいました。
「“今日の死”はいい言葉ですけども、少しばかし感傷的すぎやしませんか。もちろん、人間でいえばですが。それにそのことと、あなたが今夜ゆっくりと休むことができないこととの関係が、わたしにはまるで分からないのです」
わたしはいいました。
すると六番穴十二郎は、いかにもあきれたといわんばかりに、大きなため息をつきました。
「“今日の死”が、毎日毎日訪れることの意味を、あんたも考えてみるといい」
六番穴十二郎はいいました。
わたしは首をひねりました。
「待ってくださいよ。ふむ、これはちょっと真剣に考えてみたのですがね、やはりあなたのおっしゃる意味がわからないのです。つまり、人間でいえばですが、毎日毎日訪れる“今日の死”は、毎日毎日訪れる“今日の誕生”へと繋がるのではないですか。それを明日、未来、希望の日の出といってもいい。夜の後には朝があるのです。つまり今日、あなたがここで休憩をして、“今日の死”を迎えたとしても、さほど不都合はないということです」
わたしはいいました。
これは、とても素晴らしい説得のはずでしたが、六番穴十二郎はひどくがっかりした様子でした。
「あんたは、なんとも気楽な生き物だ。もちろん、アリでいえばだがね。人間でいえば、毎日毎日訪れる“今日の死”は、いつかくるおれたちの死への小さな練習だとは思わないのかい? それとももしかすると、人間でいえば、死はあんたにだけは訪れないものなのかね」
六番穴十二郎はいいました。
「もちろん、わたしも死にますよ。人間でいうまでもなく」
わたしはいいました。
「それなのに、死を恐れていないとは驚きだ。アリでいえばだが、おれは死を恐れている。恐れるということは、つまりは予測するということなのだ。死が少しずつ迫る足音を聞くということなのだ。だから、明日をむやみに期待などしない。今、荷車を牽かなければ、明日にはもう牽くことができないかもしれないのだ」
六番穴十二郎はいいました。
「なんとも疲れる生き方ですよ、それは。人間でいえば、ですけどね」
わたしはいいました。
すると、六番穴十二郎は笑いました。
「楽をしたいのなら、生まれてこなければ良かったろうに。だいたい、生き物の命というものは、どれも等しく大切なものではないのかね? このことは、アリでいえばもちろんそうなのだが、もしかすると、人間でいえば違うのかな?」
「命は、どれも等しく尊いものです。はっきりと分かるわけではないですが、人間でいっても、そうだと思います。恐らく、理想としては」
わたしはいいました。
「なのに不思議じゃないか。おれの体はこんなに小さいのに、あんたの体はそんなにも大きい。同じ価値の命の入れ物としては、人間の体は、少々無駄が多すぎるのではないかね。だから、だと思うがね。あんたが、そんなにも呑気でいられるのは」
六番穴十二郎はいいました。
わたしは自分と六番穴十二郎の体を見比べてみました。そうすると、確かに自分のこの大きさは、同じ命の入れ物としては、少し遠慮が足りないような気がしてきました。
「まあ、アリでいえばそういうことになる、ということにすぎないのだから、あんたが気にすることはない。楽しいおしゃべりだったよ」
六番穴十二郎はそういうと、再び荷車を牽き始めました。
大きな荷車は最初ビクともしませんでしたが、六番穴十二郎がその全身からありったけの力を絞りだすと、やがてゆっくりと動き出しました。
わたしは、荷車が次第に遠ざかるのを見つめていました。六番穴十二郎の体は小さくて、ほとんど見えないようでした。それでもじっと見つめていると、まるで六番穴十二郎の命が裸で、その荷車を牽いているようでした。それはあまりにも儚げで、なのに激しくパチパチパチパチと、火花の音を立てているようでした。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


最近のコメント