小説書きの覚え書き

子どものための物語

 子どものための物語というものは、難しい。
 わたしたちはだれだって、子どものころには、人生の重みを引きずらないで生きていた。人生の幸福のもっとも良い分け前を、まずは受け取っていたのだ。それなのに、大人たちは、この幸福で豊かな子どもの時間を、いつだって踏みにじり、圧迫しようとしてきた。自由な想像力の頭をうちつけ、窮屈な型にはめ、自分たちはといえば、なにかというと頭の良いふりをして、物事の本質をごまかしてばかりであった。
 そんな大人たちが、子どもたちのためにどんな物語を書けるというのか。大人たちの世界は複雑すぎる。問題が多すぎる。生命力が希薄すぎる。そんな世界から生まれた、一体どんな物語に、子どものための物語を名乗る資格があるというのだろうか。
 お説教なら論外。遊びということの力強さを忘れていては魅力がない。知識や教養が世の中ではなによりも役に立つだなんて、そんなまやかしも必要ない。なぜって、子どもたちは物事の本質に迫りたいのだ。直感やひらめきにこそ興奮するのだ。そしてなによりも、子どもであることを楽しんでいたいのだ。
 だからこそ、子どものための本には、簡素な美しさが必要だ。小難しい理屈ではなく、直接その心に働きかけ、ひき起こされた魂のときめきが一生続くような、力強さが必要なのだ。
 ああ、それは要するに、芸術の本質ということで、そんな物語を書こうとすれば難しいのも当然なのか。

 わたしは、子どものための物語を書いてみたいのである。

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偉大な小説家とは

「偉大な小説家とは、なによりも民族的なのだ。
 自身の民族性が強烈であってはじめて、国際的になれるのである」

 こう語ったのはジョイスであるが、彼自身、だれよりもアイルランド人であった。真に普遍的なものは、時代と場所とのつながりを持たずにはいられない。そういうことであろう。偉大な作家たちを思い浮かべるとき、ジョイスの言葉の重みを感じる。

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無題

すべての言葉を花束にしたい

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小説とは(3)

 文学も芸術のひとつのジャンルであるから、ここでは芸術そのものを問題とするが、日常生活になんの役にも立たない非日常的な芸術を、なぜ我々はありがたがるのか疑問に思ったことはないだろうか。
 ニーチェは芸術の効能を、ニヒリズムに満ちた耐え難い現実の痛みを和らげてくれることに求めた。
 かつてはこれを、なるほどと思ったものだが、さて本当にそうだろうか。

 人間は言葉なしでは考えることができない。意識は言葉に出会ってはじめて、明瞭に思考する。
 その人間の言葉には二種類あると仮定しよう。
 先の例に従えば、新聞テキスト的な言葉と、小説テキスト的な言葉だが、それらをより一般化し、前者を包括する概念として、日常生活で用いられる言葉というものを定義し、これを日常的言葉ということにしよう。また、後者を包括する概念として、詩や小説など芸術で用いられる言葉というものを定義し、これを文学的言葉ということにする。

 日常的言葉は、日常の生活の中で習慣化、自動化されている。
 いきなりなんのことやら、と思うかもしれないが、日常で用いられる言葉の多くが、無意識に用いられ理解されていると言えば分かりやすいだろうか。
 むしろ、このときの言葉は言葉として認知される必要などなく、もっぱらその指し示す対象を想起(認知)させることで、その役目を終え、即座に忘れ去られている。
 「わたしはあなたいに、冷蔵庫からビールをわたしのためにとってきて欲しいと思う」という意味内容は、台所を指さしながら「ビール」というだけで十分なこともあるように、我々は日常会話の中では文法にさほどこだわらないし、表現を完全にいいきらなくとも、その特徴によって、言葉の示唆しようとするものを感覚的に伝え、また把握することができれば十分と感じている。認知の容易な言葉が、日常的言葉であるといってもいいだろう。
 ところで、無意識に繰りかえされている活動は記憶に残りにくいものである。毎日のルーチンワークなどは、いざ思い出そうとしても、なかなか思い出せないのだ。今朝食べた食事のこともすぐには思い出せなかった、という経験をしたことのある人も多いだろう。このように習慣化、自動化された行為は、それが繰り返されるなかで、再現不可能な体験へと落ち込むものである
 このことは、人間の生活のあらゆる場面で妥当する。どんな体験も――恋愛も、戦争の恐怖も――やがて風化し、再現不能な体験へと押し流されていくのである。それはすなわち、無への平準化であり、生の感覚の劣化である。
 自動化された日常的言葉もまた、このサイクルに組み込まれている。
 
 ここで、芸術とはなんのためにあるのか、という話しに戻ろう。
 結論からいえば、芸術とはすなわち、自動化への抵抗である。
 習慣化、自動化することで日々薄れていく生の実感を取りもどそうとするのが芸術であり、愛を愛として、恐怖を恐怖として、それぞれに鮮烈な感触を再体験するためにこそ、芸術は存在しているのだ。
 すなわち、たとえそれが苦しみであるとしても、芸術は生の感触を希薄にさせるために存在するものではないのである。

 さて、芸術――ひいては文学は、いかにしてこの自動化に抵抗するのであろうか。
 と、いうところでとりあえず今日はお終い。

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アイがなければ小説じゃない

小説とは、愛について語られる小さな物語である。

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感触

小説とは、知識や理屈ではなく、感触を伝えるものである。

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小説とは(2)

文字メディア相互の差異

 ところで、テキストを通じてなにかを伝えるということは、なにも小説に限ったはなしではない。
 例えば小説と新聞記事とでは、そこに書かれたテキストを読むという行為の外形は同じだとしても、その意味は違ってくるのではないだろうか。
 テキストとして現実に存在する文字列。
 新聞を読むときには、その文字列を忠実に理解することで足りるし、そう求められている。
 出典は忘れたが、こんな話を聞いたことがある。
 ある新聞記者が、洪水で大きな被害のあった地域へと取材で飛んだ。現場はどんな状況なのか。どの程度の被害なのか。回復の目処は。デスクは記者からの第一報を待った。だが、待てども待てども記者からの報は入ってこない。デスクが痺れを切らしたころに、ようやく届いた記者からのテキストは、「○○(地名)は神の裁きにあった」から始まる、感傷的で情緒的な長文であったという。
 新聞記事の第一報として必要な情報は、洪水の影響のあった範囲、死者、負傷者の数、ライフラインの状況など、わずか数行で足りることであったかもしれない。だがその新聞記者は、現場の状況を彼の言葉で語りたがった。悩みに悩んだ末の、最初の一行が、「○○(地名)は神の裁きにあった」だったのだろう。
 なるほど、その言葉はインパクトが強く、凄惨な現場の状況が目に浮かぶ。
 だが、嘘だ。
 ちなみに、この話にはオチがついていて、デスクはその新聞記者に対して、「洪水の取材はもういい。君は神さまにインタビューをしろ」といったとか。よくできた小話だ。 
 さあどうだろうか。
 この出来損ない記者のテキストは、新聞記事としては相応しくなかった。だが、彼の書いた記事は、小説としてはなかなかに面白い書き出しではないか。
 思うに新聞記事というものは、誤解の余地があってはならない。むろん、テキスト特有のあいまいさ、という問題からは新聞記事も抜け出せないのであるが、極力、正確に、真実のみを、テキストそのものによって伝える使命を帯びているのである。
 一方小説は、作者の頭の中にある世界や、作者が目にした世界を、小説世界に再現しようとするものであり、その再現に当たっては、正確、であることが必要な技術のひとつであろう。だが、その正確さはテキストのみによって実現される必要はない、テキストから想起されるイメージや、その行間をも含めて再現できれば足りるし、まさにそれが小説と新聞記事との差だといえるのではなかろうか。
 だから我々は、新聞記事を読むときには、そのテキストを忠実に理解しようとするし、小説を読むときには、そのテキスト以上をどうにかして理解しようとする。
 いわんとすることは、小説の内容には「テキスト以上のなにか」が含まれており、あるいはそれこそが、小説を小説たらしめている要因のひとつではないか、ということである。

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小説とは(1)

とりあえず、ここでどんな話が展開されるのか

 小説(フィクション)は、どんなにリアリズムに寄っても結局は虚構(フィクション)でしかない。
 では、嘘だと分かっている「おはなし」を、ありがたがって読むのはなぜなのか。続いてそんな疑問が湧いてくると思う。
 すなわち、なぜ小説を読むのか、という問題だ。
 「感動」を求めて小説を読む、と答える人がいるかもしれない。
 明解な解答だ。だが、それならば映画やゲームでも感動を味わえるはずではないか。
 これに対して、ある人はこう反論するだろう。
 そうはいっても、映画館に行って映画を観るときもあれば、家でゲームをするときもある。通勤通学の途中で電車に揺られながら読書することもある。生活の中での様々な場面において、そのときそのときの娯楽を求めた結果、たまたま読書がそこにあったということじゃないの?
 なるほど、もっともらしい。だがつまるところこの答えは、小説には(時と場所を選ばず手軽に扱えるということ以上に)独自の価値はない、といってるも等しい。
 本当にそうなのだろうか。
 そんなわけで、なぜ小説を読むのか、小説の存在価値とは、という話をすこしだけしたい。
 小説の価値の正体を知ることができたなら、その価値を高めるための手法も見つかるかもしれない。
 そんな期待を込めて、とりあえず思うがままに書いてみる。

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小説を書くことは難しい

 小説を書くことは難しい。
 心からそう思うのだが、そう言い切れるほどに、小説のことをわかってはいない。
 だけども思うのは、最新の文学論や、批評家のような物知り顔はいらないということだ(書く人間にとっては、って意味でね。読み手としてや、研究や、学術の対象としては必要な知識なのだろう)。
 小難しい理屈を並べても、素晴らしい小説が書けるわけではない。インスピレーションと音楽だけが、奇跡のような小説を生むこともあるし、そうして生まれたたくさんの小説をぼくたちは知っている。
 だけどもぼくたちは、クリスマスの贈り物を待つように、奇麗に包装された小説が靴下に入れられるのを待つわけにはいかない。他のだれでもなく、それが自分の手の中に落とされる可能性など、どうして信じられるだろうか。
 だからぼくたちは、乏しいインスピレーションと乗り切れない音楽の中で、なんとも泥臭く、あがきにあがきながら小説を書くしかないのだ。 
 だから小説は難しいのだと、心からそう思うのだけども。

 素晴らしい小説を書くための方法論があるのなら、是非ともそれを知りたい。残念ながら、ぼくはそれを知らないし、ここにいる多くの人も同じだと思う。
 ぼくが、これからここで書いていこうと思うのは、小さな、本当に小さないくつかの考えだ。ぼくならこう書く、こんな風に考えるという、そういうことを思いつくままに書いていきたい。
 もちろん、100%の方法などではない。正しいという保証もない。ただ、これまでにあがきながら、なんとなく考えてきたことをここに書いてみたいのだ。
 わからないことだらけのぼくだけども、だれかと苦労を分かちあうために、この小さなスペースからメッセージを発信するぐらいなら、かろうじて許される気がするのだ。

 このカテゴリーに書かれるのは、その程度の雑談である。

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